2008年03月10日

古典派3大巨匠の一人、神童モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは最も有名なクラシック音楽の作曲家の一人であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3大巨匠の一人。

オーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、ウィーンで没しました。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長など。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及びます。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されています。

最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心に学びました。その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けました。

後期に入るとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハの影響を強く受けます。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多いのですが、これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれます。

モーツァルトが主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えたということです。


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2008年03月19日

思慮深く、夫モーツァルトの作品を守ったコンスタンツェ

モーツァルトの人生はとても波乱万丈。
そして、いろんな逸話が残されています。その全てが真実かどうかは分かりませんが…。

モーツァルトは妻コンスタンツェとの間に四男二女をもうけましたが、当時は医学が発達した時代ではなかったため、そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡しています。

フランツ・クサーヴァーは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗りましたが、彼はモーツァルトの子ではなく、弟子のジュースマイヤーと妻コンスタンツェの不倫の子という説があるとか。

成人した2人の男子はどちらも子供を残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいません。

モーツァルトの実際の容姿に関しては諸説あって、有力なのは、「11歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものだそうです。

本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまいました。体躯に関しても「小男である」「肥満が著しかった」という説があるんですね。

妻コンスタンツェ・ヴェーバーはかつて片思いの恋をしたアロイジアの妹で、愛のない、不実な、不精な人物で、浪費家であり、世界三大悪妻の一人とされています。

しかし、実際のところは違うようです。
周囲の人々の手紙などで残された人物評によれば、教養が高く家事にも熱心な快活な娘であって、不精で愚かであるとする悪妻説の人物像は当てはまらないとあります。

何よりモーツァルト自身が妻への愛情に溢れた手紙を残しているし、「わたしのいとしいコンスタンツェのために」という曲を書き、ソプラノ歌手であったコンスタンツェがソプラノ独唱をしています。

更に、コンスタンツェは「思慮深く、経済観念も発達していて、夫の作品を守ったことは、多くの資料が証明している」(ミシェル・パルティ)とする意見もあります。

私はテレマンとモーツァルトの曲を聴くと、なぜか心がほっとします。そんなモーツァルトの人生はやはり愛情に満ちたものと思いたいですね。

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2008年03月31日

早すぎる死 幼少期の度重なる旅行が原因?

モーツァルトは1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで亡くなりました。

『皇帝ティートの慈悲』上演のためプラハに行った時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたといいます。

症状としては全身の浮腫と高熱で、ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされますが、実際の死因は「リューマチ熱」であったと考えられています。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われています。

実際の死因がリューマチ熱、リューマチ性炎症熱であったということに関しては、幼少期の度重なる旅行が原因であったとする説も存在しています。

父レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時からモーツァルトに音楽教育を与えました。そして、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行ったのです。それは、神童の演奏を披露する就職活動でもありました。

モーツァルトは旅行先で病に伏すことが少なくなかったそうです。これは当時の医療技術が未熟で幼児の死亡率が高かった事と、道路の舗装が不完全で馬車の振動が健康を脅かしていった事が背景にあります。

そして、モーツァルトは幼少期に罹患したリューマチに終生悩まされる事となるのです。

このリューマチを持病としたためにモーツァルトの体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまった、とも考えられています。

天才であるがための早すぎる死。後世に残してくれたものが大きいだけに、心が痛む思いがします。


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2008年04月29日

モーツァルトの死にまつわる謎とスキャンダル

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがあるそうです。実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていました。

死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じました。しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいません。

1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こりました。ただし、これらは何ひとつ立証されてはいません。

これはロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人サリエリが標的にされたといわれています。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなります。このスキャンダルを元に、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られました。

いつの世にも、嫉み嫉妬からの、事実と異なる非難や風評などマスコミを喜ばせるようなスキャンダルはあるものですね。


posted by suzusuzu at 11:59| Comment(1) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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