2008年05月26日

「音楽の母」ヘンデル

大バッハと並ぶバロック音楽最大の作曲家、「音楽の母」といわれるゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家です。

大バッハが主として教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)で活躍したのに対し、ヘンデルはオペラや(劇場用の)オラトリオなど、劇場用の音楽で本領を発揮しました。

特に、オラトリオ『メサイア(救世主)』は曲中に有名な「ハレルヤ・コーラス」を含み、今日でも非常に有名です。

また、オラトリオ『ユーダス=マカベウス(マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」は、優勝者を称える曲として日常的に用いられています。

オペラ『クセルクセス(セルセ)』中の「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」は、「ヘンデルのラルゴ」とも呼ばれて親しまれています。

そのほか、オペラ『ジュリアス・シーザー』、オラトリオ『エジプトのイスラエル人』や、『リナルド』の中のアリア「私を泣かせてください」なども知られています。

サッカー・欧州チャンピオンズリーグの入場曲『UEFAチャンピオンズリーグ賛歌(UEFA Champions League Hymne)』は『司祭ザドク(Zadok the priest)』を原曲としてアレンジしたもの。

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2008年05月20日

バッハも関心を持っていたアルビノーニの器楽曲

ヨハン・ゼバスティアン・バッハが非常に関心を持っていたというアルビノーニの器楽曲。

ヴェネツィアのトマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニは、イタリア・バロック音楽の作曲家です。

『アルビノーニのアダージョ』は特に有名ですが、後世に他人によって再構成された作品で、実際はオリジナルではないにもかかわらず、最も馴染み深い「バロック音楽」となっています。

アルビノーニは50曲ほどのオペラを作曲し、そのうち20曲が1723年から1740年にかけて上演されましたが、こんにちでは器楽曲、とりわけオーボエ協奏曲が最も有名です。

バッハは、アルビノーニの主題によるフーガを少なくとも2曲遺しており、しかも、しばしば学生の和声法の実習において、アルビノーニのバス課題をよく利用したそうです。

残念なことに、アルビノーニ作品のほとんどは、第二次世界大戦中のドレスデン空襲の際に失われてしまいました。

名高い『アルビノーニのアダージョ ト短調』は、1945年にレモ・ジャゾットがドレスデン国立図書館の廃墟の中で偶然に発見した、トリオ・ソナタの緩徐楽章の断片から「復元」されたものと言われています。

音楽的魅力溢れたこの作品は、しばしばオーケストラの重要なレパートリーになっており、またクラシック音楽入門に適した曲目としてよく演奏され、愛聴されています。

その上、しばしば他の楽器に編曲されたり、テレビ番組や映画・CMのBGMに転用されるほど有名になりました。


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2008年04月29日

モーツァルトの死にまつわる謎とスキャンダル

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがあるそうです。実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていました。

死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じました。しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいません。

1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こりました。ただし、これらは何ひとつ立証されてはいません。

これはロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人サリエリが標的にされたといわれています。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなります。このスキャンダルを元に、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られました。

いつの世にも、嫉み嫉妬からの、事実と異なる非難や風評などマスコミを喜ばせるようなスキャンダルはあるものですね。


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2008年03月31日

早すぎる死 幼少期の度重なる旅行が原因?

モーツァルトは1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで亡くなりました。

『皇帝ティートの慈悲』上演のためプラハに行った時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたといいます。

症状としては全身の浮腫と高熱で、ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされますが、実際の死因は「リューマチ熱」であったと考えられています。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われています。

実際の死因がリューマチ熱、リューマチ性炎症熱であったということに関しては、幼少期の度重なる旅行が原因であったとする説も存在しています。

父レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時からモーツァルトに音楽教育を与えました。そして、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行ったのです。それは、神童の演奏を披露する就職活動でもありました。

モーツァルトは旅行先で病に伏すことが少なくなかったそうです。これは当時の医療技術が未熟で幼児の死亡率が高かった事と、道路の舗装が不完全で馬車の振動が健康を脅かしていった事が背景にあります。

そして、モーツァルトは幼少期に罹患したリューマチに終生悩まされる事となるのです。

このリューマチを持病としたためにモーツァルトの体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまった、とも考えられています。

天才であるがための早すぎる死。後世に残してくれたものが大きいだけに、心が痛む思いがします。


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2008年03月19日

思慮深く、夫モーツァルトの作品を守ったコンスタンツェ

モーツァルトの人生はとても波乱万丈。
そして、いろんな逸話が残されています。その全てが真実かどうかは分かりませんが…。

モーツァルトは妻コンスタンツェとの間に四男二女をもうけましたが、当時は医学が発達した時代ではなかったため、そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡しています。

フランツ・クサーヴァーは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗りましたが、彼はモーツァルトの子ではなく、弟子のジュースマイヤーと妻コンスタンツェの不倫の子という説があるとか。

成人した2人の男子はどちらも子供を残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいません。

モーツァルトの実際の容姿に関しては諸説あって、有力なのは、「11歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものだそうです。

本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまいました。体躯に関しても「小男である」「肥満が著しかった」という説があるんですね。

妻コンスタンツェ・ヴェーバーはかつて片思いの恋をしたアロイジアの妹で、愛のない、不実な、不精な人物で、浪費家であり、世界三大悪妻の一人とされています。

しかし、実際のところは違うようです。
周囲の人々の手紙などで残された人物評によれば、教養が高く家事にも熱心な快活な娘であって、不精で愚かであるとする悪妻説の人物像は当てはまらないとあります。

何よりモーツァルト自身が妻への愛情に溢れた手紙を残しているし、「わたしのいとしいコンスタンツェのために」という曲を書き、ソプラノ歌手であったコンスタンツェがソプラノ独唱をしています。

更に、コンスタンツェは「思慮深く、経済観念も発達していて、夫の作品を守ったことは、多くの資料が証明している」(ミシェル・パルティ)とする意見もあります。

私はテレマンとモーツァルトの曲を聴くと、なぜか心がほっとします。そんなモーツァルトの人生はやはり愛情に満ちたものと思いたいですね。

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2008年03月10日

古典派3大巨匠の一人、神童モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは最も有名なクラシック音楽の作曲家の一人であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3大巨匠の一人。

オーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、ウィーンで没しました。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長など。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及びます。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されています。

最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心に学びました。その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けました。

後期に入るとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハの影響を強く受けます。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多いのですが、これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれます。

モーツァルトが主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えたということです。


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2008年03月05日

バロック音楽の百科全書「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」

テレマンは、オペラ20曲、室内楽200曲、協奏曲100曲、管弦楽130曲、受難曲46曲、教会カンタータ1000曲という膨大な作品を残しています。

40歳となった1721年、ハンザ自由都市ハンブルクに移動、その後46年間、都市音楽監督兼ヨハネスカントールとして、オペラ、コンサート、教会音楽や出版を行い、高い名声を得ました。

テレマンは、裕福な市民層を相手に作品の予約販売という方法で成功を収めたほか、隔週の音楽雑誌「忠実な音楽の師」を刊行、毎号、新作楽譜を掲載するという新手の商法を生み出すという商売上手でありました。

ターフェルムジーク(食卓の音楽)は、宮廷の宴席で好んで演奏された室内楽を集めたもの。

三つの曲集からなり、各々の曲集に、管弦楽組曲、コンチェルト、四重奏曲、トリオ・ソナタ、ソロ・ソナタといった異なった器楽合奏曲が含まれ、「バロック音楽の百科全書」とも呼ばれているそうです。

その作曲については、ドイツ国内、イギリスやフランスだけでなく、ロシアからも予約注文があったといいます。

明るく洗練された優美さと時代を先取りした和声感、さらには楽器の持つ色彩感や個性を生かしたその音楽の魅力が20世紀後半から再び見直されるようになりました。

優雅で叙情的なメロディが美しく印象的なテレマンの楽曲。もっともっと聴いてみたい気がします。

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2008年02月28日

チェンバロは一体、何楽器?

外見はピアノに似ているチェンバロは一体、何楽器でしょう?

チェンバロは、弦を爪で弾いて発音する楽器で、撥弦楽器(はつげんがっき)、または鍵盤楽器の一種に分類されます。英語ではハープシコード、フランス語ではクラヴサンといいます。

発音の仕組みがピアノとは異なり、鍵盤を押し下げると他端に載っているジャックと呼ばれる薄板状の部品が瞬間的に跳ね上がり、その際にジャックの側面に装着された鳥の羽根軸などからできたプレクトラムと呼ばれるツメが弦を下から上にひっかいて音を出します。そのため音色などもピアノとは全く異なるわけです。

古くは14世紀頃から西ヨーロッパ圏に存在し、17、18世紀には人気の撥弦鍵盤楽器になっていました。

特にバロック期の音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハによって、チェンバロ音楽は一つの頂点を迎えました。

バッハは自ら堪能に弾きこなし、それまでおもに通奏低音やオルガンの代用品といった脇役の地位であったチェンバロを、室内楽や管弦楽における独奏楽器として主役の地位にまで高めました。

美しく装飾されたチェンバロは、当時の優雅な貴族達の様子を思い浮かばせて魅惑的です!

しかし、18世紀後半古典派期には、よりダイナミックな音色の出せるピアノに人気を奪われ、徐々に姿を消していきました。

しかし19世紀末頃から古楽演奏のためにチェンバロは必要だという声が上がり、博物館に残された楽器を参考に、さらに当時のピアノの要素を組み込んだモダンチェンバロが新しく開発されました。

モダンチェンバロは20世紀前半まで頻繁に使われましたが、バロック時代に実際に使われていた楽器とは大きく異なるという批判が生まれ、古い時代の楽器を忠実に再現することに努めたヒストリカルチェンバロが生まれました。

これが現在の標準的なチェンバロです。その後、オペラのレチタティーヴォ・セッコの伴奏の他、ルネサンスのダンス音楽やバロック音楽を演奏する際の通奏低音などで、古楽器として活躍しています。

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2008年02月21日

バッハやヘンデルより、人気と名声のあったテレマン

ゲオルグ・フィリップ・テレマンは、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家。
生前は同時代の作曲家であったバッハやヘンデルより、人気と名声のあった作曲家とされます。彼の作品は優に4000曲を超え、いまだに整理がしきれていないそうです。

テレマンは、12歳でオペラを作曲し始めた神童でした。
若いころにポーランドとドイツのアイゼナッハの宮廷楽長をしています。1722年、ライプツィヒの聖トマス教会の楽長が亡くなった時、ライプツィヒ市はまずテレマンを招聘しようとしましたが断られ、仕方なく知名度の低かったバッハを招聘したというエピソードがあります。

テレマンには、多作家の音楽職人、耳あたりのよい音楽を繰り返し書いた大衆迎合の音楽家といったイメージがつきまとっています。しかし、当時はJSバッハより遙かに著名な音楽家だったのです。

JSバッハのように、ドイツ・プロテスタント音楽の伝統を守ろうとした音楽家より、テレマンのように今風なフランス音楽を得意とする音楽家の方が、18世紀のヨーロッパでは遙かに人気があったわけです。

最近のオリジナル楽器の演奏で、フランスバロックやテレマンの真価が見直されて来ました。
バッハは重厚な感じがありますが、それに比べてテレマンは確かに快く聞きやすい気がします。構えることなく楽しく聴ける音楽、心和み身近な音楽、それも素晴らしい音楽の魅力だと思います。

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2008年02月18日

BWV、ケッヘル、ドイチュ番号って何?

作品の番号にBWVとか、ケッヘルとか、ドイチュとかありますが、あれって何でしょう?

●BWV……バッハ
バッハの作品には、BWV○○○という風に番号がついています。
これはシュミーダー番号(BWV、「バッハ作品目録」 Bach Werke Verzeichnis の略)で、これによって整理されています。

「バッハ作品目録」は、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に配列されています。

また1951年からドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所(ゲッティンゲン)で「新バッハ全集」の編纂が開始され、1953年にバッハアルヒーフ(ライプチヒ)もこの編纂に参加しますが、10年で終わると予想されていた編纂作業がドイツの東西分断など事情で難航し2007年に「新バッハ全集」103巻が完成しました。

「新バッハ全集」には1100の作品が収められています。現在も作品の整理が継続中だそうです。

●ケッヘル……モーツァルト
モーツァルトの作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われます。

ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版。モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けています。1784年より前の作品や、モーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもあります。

●ドイチュ番号……シューベルト
シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch, 1883 - 1967)により1951年に作られた英語の作品目録のドイチュ番号によって整理されています。

このように、作品を整理した人に由来しているようです。

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